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【第3章】ガス機器の黎明期(第3回)

1.ガス灯に始まったガス機器の歴史

1-④ 戦後から昭和20年代

昭和16(1941)年に第二次世界大戦が勃発すると、それまで順調に拡大を続けていた都市ガス事業も戦災により製造・導管設備共に大きな影響を受け、戦前に200万件を超えていた東京ガス管内の需要家件数も、戦後には約1/3と大幅に減ってしまいました。

 

このような状況の下では、各都市ガス事業者もガス機器の普及どころではなく、まず都市ガスそのものの製造と供給の立て直し、破損してしまった導管の修理、各家庭内ガス設備機器の整備などに忙殺されていました。

 

一方、アメリカの進駐軍の家族用住宅は、国会議事堂の周りやワシントンハイツ(代々木の国立オリンピック青少年総合センターなどになっている場所)に、約1300戸ほど建設されました。昭和22(1947)年には、東京ガスの進駐軍向けの需要家数は2300件となり、その販売量は、当時の東京ガス供給量の40%を占めるまでになったのです。

 

なお、ガス機器は、進駐軍が本国から取り寄せたカタログを日本のガス機器メーカーに提示して造らせた厨房機器、瞬間湯沸器、ガスストーブなどを使っていました。

 

この時期、進駐軍のカタログを見ながら、ガス機器メーカーが苦労してガス機器を作ったのですが、この経験がその後の国産品としてのガス機器開発に生かされたとも言えます。

 

昭和20年代後半に入ると、これまで止まっていた各種国産ガス機器の製造・販売が活発になってきました。

 

厨房機器については、戦後の昭和20年代は戦前と変わらず一般的な家庭ではガスかまどやガス七輪が主流でしたが、一部の富裕層の家庭でテーブルコンロ・グリル・オーブンをワンセットにしたガス調理器などが使われる様になりました。

 

風呂については、戦時下では燃料が全く不足していたので、銭湯も縮小し、家庭でも風呂の使用は制限されていました。

戦後も住宅事情や燃料不足のせいで一般の人々にとって、自宅での入浴は贅沢であり、銭湯を利用する状態が続きました。

 

その後、世の中が落ち着いてきて、復興が進み、国の政策による住宅公団などの公営住宅や民間住宅の建設が促進され、新設の住宅には浴室設置が標準形になりました。これにより、各家庭でも住宅内の内風呂方式が増えてきたのです。

 

戦後の昭和20年代は戦前に比べてもガス湯沸器の普及数は少なかったと思われます。

 

ガス湯沸器はアメリカでは必須のガス機器でしたので、戦後、進駐軍のワシントンハイツ等では湯沸器とともに厨房用などガス機器は使用されていたのです。当時、進駐軍の住宅ではガス湯沸器806台、ガス調理器関係827台取り付けたという記録があります。

 

その影響もあり、当時のアメリカ人の生活習慣が日本でも定着し、都市ガス業界、機器メーカー業界としては、今後はガス湯沸器などガス機器が普及するだろうとの見通しがありました。

昭和25(1950)年頃から、ガス機器メーカーでガス湯沸器など新製品が続々と開発されていきました。

当時の環境としては、ガス機器販売は都市ガス会社の販売網が主体となって普及拡大を図るため、当初のガス機器開発に当たっては、大手都市ガス会社が機器開発の基本的な概念設計などを担当した経緯があります。

 

 

戦後になって生活様式の変化もあり、厨房用ガス機器、温水給湯用湯沸器、風呂釜などの普及、暖房用では従来の火鉢、炬燵などから部屋全体を暖めるストーブなどの暖房方式に変わっていきました。

ガスストーブ、石油ストーブ、電気ストーブなどを一般庶民が使い始めたのです。

ガストーブの主流は、戦前と変わらずスケレトン式ストーブでしたが、新しい形の国産スケレトンストーブも各種製造販売されるようになりました。

 

 

 

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