1.ガス灯に始まったガス機器の歴史
1-② 大正時代
大正時代に入ると、厨房機器はもちろん、湯沸器、暖房機器と、家庭で使う加熱用ガス機器のほぼ全種類が輸入されていました。一方、ガス機器の国産化は、「ガスかまど」「ガス七輪」「ガス風呂釜」などにとどまっていました。
日本でのガス機器は、電気機器と違い、都市ガス事業者が主導して小規模なガス機器メーカーにガス機器製造のコンセプト(概念)を伝え、共同開発・製造・販売していました。
都市ガスの需要が広がるにつれ、身近な厨房機器は、ガスかまど、ガス七輪などを中心に国産品が普及していきました。
大正時代には生活改善運動が広がり、浴室や便所は離れではなく、住宅の中に入ってきました。中でも、一坪の中に浴槽と洗い場を作ることは、「衛生・経済・防火」の三徳があると言われ、薪・石炭などを燃料とする作りつけの風呂が広がってきました。
大手都市ガス事業者が、大正6(1917)年に設立された日本初のガス風呂販売会社である「日本瓦斯風呂商会」などと協力してガス風呂釜の普及向上に努めました。
そんな時、大正12(1923)年9月に関東大震災が発生しました。ちょうど昼の炊事時だったので、薪・石炭などの火はすぐに消すことができず、延焼により大火災となり、約11万人死者が出るなど被害が大きくなったのです。
その後、都市ガス利用が安全という評価が改めて見直され、この頃から、煮炊き用コンロ、温水用湯沸器、ガス風呂釜などの普及もさらに進んでいったのです。
日本に本格的な瞬間湯脇器が登場したのは、大正元(1912)年にドイツから輸入されたユンカースガス湯沸器が最初で、その後、大正時代にはフランス、イギリス、アメリカからも輸入されるようになりました。ガス湯沸器は海外では普及していましたが、日本では高価な輸入品として一部の裕福層に限られていました。
暖房機器は、イギリス、アメリカなど海外のガスストーブが各種輸入されていましたが、まだまだ庶民にとっては、かなり高価なものでした。
1-③ 昭和時代―初期から戦前まで
昭和の時代に入ると、都市ガス需要はさらに広がり、都市ガス用ガス機器はほぼ国産化されるようになりました。
厨房機器では、七輪だけではなく、天火(オーブン)、レンジやテーブルコンロが組み込まれた調理器としてのガスレンジ及び単独ガス機器が逐次開発され広く国産化されるようになり、普及していきました。
風呂釜の普及形態は、関西地区、関東地区とでは異なりますが、関東地区周辺の状況について説明します。
昭和になっても、燃料は薪・石炭などが主なものでしたが、住宅内の内風呂方式は広がっていきました。当然、排気ガスは煙が出ますので、排気筒は必須でしたし、煙突工事の専門業者も存在していました。
内風呂の普及に対して、昭和6(1931)年に東京ガスが早沸釜
瓦斯風呂(図-1 参照)を発売しました。早沸釜ガス風呂は、沸き上がり時間の短縮、熱効率の向上、ガスの完全燃焼、逆火の絶無、点火や取扱いの簡易化、釜鳴現象の減少、高温の上がり湯、追い炊き可能など、従来のガス風呂のデメリットをほぼ解消していました。
このような、早沸釜ができ、都市部ではガス風呂が急速に広まっていきました。しかしながら、ガス風呂の排気は、無色、無臭のため、
排気筒設備が不要という誤解があり、後年、給排気設備不備住宅が増える原因になったのです。
なお、地方では、相変わらず昔ながらの薪・石炭などを燃料とする五右衛門風呂、鉄砲風呂を使っていました。(図-2 参照)
昭和5(1930)年には、湯沸器の入口の水栓で水道を開閉する国産初の元止め式ガス瞬間湯沸器が製造・販売され、昭和7(1932)年には、湯沸器の出口の湯栓でお湯の出し入れを調節する先止め式ガス瞬間湯沸器が製造・販売されました。
これらのガス瞬間湯沸器の販売価格は当時約35円で、現在の15万円相当でした。当時のサラリーマンの初任給が50円位だったので、35円はかなり高く、一般庶民にはほとんど普及していませんでした。
海外では、暖房方法の主流は部屋全体を暖めるタイプであり、ガス暖炉やガスストーブなどの輸入品は価格も高いため、あまり使われていませんでした。
昭和時代になって比較的安い国産ガスストーブが初めて登場しました。その後、国産ストーブ(図-3 参照)も各種製造され、ガス暖房機器も次第に普及していったのです。
日本にも部屋全体を暖める文化が次第に根付いていきました。
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