• トップ
  • 【第2章】都市ガス事業と保安の歴史(第3回その1)

【第2章】都市ガス事業と保安の歴史(第3回その1)

3.都市ガス事業の推移と保安

① 明治・大正・昭和初期~戦前の都市ガス事業の推移

 

明治時代

 

海外と同じように日本でも、都市ガスの利用用途はガス灯から始まりました。

 

ガス灯をより明るくするために開発されたのが「マントル」といわれた発光体です。マントル以前のガス灯の炎は裸火で、赤黄色の炎が風でゆ らゆら揺らめくといったものでした。

 

 明治19(1886)年に海外で発明されたマントルは、発光剤のセリュムやトリウムを網状に焼き固めたもので、当初は輸入でしたが、後に国内で作られるようになりました。

 マントルをガス灯にかぶせると、ゆらゆらとした裸火から、青白く輝く揺れない光に変わります。

マントルを被せたときの明るさは、それまでのガス灯の5倍といいますから、まるで真昼のようにみえたのではないでしょうか。

 その後、都市ガスは、厨房用などの熱源としても使われるようになりました。
当時の銀座通りのガス灯や大隈重信侯爵家の台所風景などが 当時の錦絵などで紹介されていますが、このように都市ガスの利便性は大衆の話題ともなり、文明開化の象徴とみられるようになったのです。
その後、厨房用、温水用、暖房用などに、様々なガス機器が輸入され、一般の富裕層にも使われるようになりました。

 

明治12(1897)年にエジソンの炭素電球が発明されたことは、日本の都市ガス事業にも大きな影響を与えることになりました。

日本でも明治19(1886)年に東京電灯会社が設立され、一般配電が始まりました。
エジソンの炭素電球は、始めは切れやすくて、停電も多く、電気は爆発するから危ないと噂されたことがありました。

 

 

一方、都市ガス業界では、明治30(1897)年から明治40(1907)にかけて、大阪瓦斯、神戸瓦斯、名古屋瓦斯が相次いで設立されました。

 

白い輝きの白熱マントルを武器としてガス灯が巻き返しますが、明治43(1910)年ごろからタングステン電球と呼ばれる新たな電球が出てきて、照明器具としては太刀打ちできず、次第に照明はガス灯から電灯に変わっていきました。

 

明治44(1911)年には電気事業法が制定されました。

その結果、都市ガスは厨房用など熱源を利用する方向に進んで行くことになりました。ただ、電灯への変化はゆっくりとしたスピードで進んだので日本のガス灯の絶頂期は明治30年代~大正年代の初めごろまで続いたのです。

 

大正時代

大正時代に入って、民間や公営の都市ガス事業者が日本各地に誕生し、

大正4(1915)年には91事業者に増えました。

 

大正3(1914)年)に、第1次世界大戦が起き、大正7(1918)年に終わるまで、被害をうけなかった日本は、大戦への戦時物資の供給基地として、空前の好況となり、物価は4倍になりました。

 

しかし、都市ガス事業は「報償契約」という自治体との契約があって、料金を1.5倍程度しか上げられなかったのです。その結果、都市ガスを作ればつくるほど事業は赤字になり、都市ガス事業者は半分以下に減ってしまいました。物価の高騰も、大正7(1918)年に第一次世界大戦が終わると鎮静化していきました。

 

大正12(1923)年の第46回帝国議会で、電気事業法に12年遅れて瓦斯事業法が成立し、大正14(1925)年に施行されました。

それまでは自由に都市ガス事業者が創設できたので、東京瓦斯と千代田

瓦斯が競合し同じ道路に別の事業者のガス導管があり、導管が2本になってしまった、などということもありました。

ガス事業法は公益事業としての地域独占を認めたので、経済合理性が保たれるようになりました。

 

その後、大正12(1923)年9月に関東大震災が発生し、丁度昼食の準備の時間帯で火を使っていた家が多かったため、東京・神奈川の火災による犠牲者は10万人以上という大惨事となりました。当時は都市ガスを使う人はまだ少なく、火災の主な原因は、薪や木炭などでした。そうしたことから、火災防止対策としての安全性が評価されるようになったのです。

 

つづき【第2章】都市ガス事業と保安の歴史(第3回その2)はこちら>>

 

 

>「都市ガスはどのようにして安全になったのか?の要約」一覧ページへ戻る