都市ガスはどのようにして安全になったのか?
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③ 高度経済成長とガス事故多発の時代へ 人が漏洩課所を探知しました。その結果、2月に約55%だった漏洩率は 7月には30%弱になりました。同時に、約11万本の要らなくなった引 き込み管を本管から取り外しました。さらに毎年、ガス安全キャンペーン として、道路上や下水のマンホールなどを臭気棒という管で臭いをかぎ 漏洩課所を探知するなどして、漏洩を防止し、ガス導管を通じて都市ガス を安全に供給することに専念しました。 このような環境条件では、都市ガス需要家は限られており、ガス機器の使 用者は少なく、使われているとしても、煮炊き用のガスコンロが中心でし た。風呂はほとんどが共同浴場、つまり銭湯であり、住宅内の内湯や湯沸 器の利用は富裕層に限られていました。 日本は、戦後の物不足によりインフレになってゆきましたが、昭和24 (1949)年、米国大統領の命を受けたドッジ氏が公使として勧告した、 いわゆるドッジ・ラインといわれるインフレ収拾のための超緊縮財政に よってデフレになってゆきました。1ドルを360円の単一為替レート にしたのもこの政策でした。 インフレは収まりましたが、ドッジ・ラインデフレ恐慌で金詰まりとなり、 中小企業の倒産が増えました。 ところが昭和25(1950)年に、韓国と北朝鮮のいわゆる朝鮮動乱が 起き、米軍が軍需品を調達したため、デフレで在庫過剰になっていた製品 の輸出は一転して急増し、日本経済は一気に好景気になっていったので す。 昭和27(1952)年には、東京ガスのガス漏洩率は6%程度と低くな り、需要家数も79万件と終戦時の2倍まで回復しました。これは、過去 最高だった昭和18(1943)年に記録した106万件の74%に当た ります。 昭和31(1956)年には経済白書が、「もはや戦後ではない」と宣言 しました。昭和39(1964)年から昭和48(1973)年の9年間 は、年平均10%以上経済が成長したのです。それにつれて、人々の所得 も増え、消費意欲が爆発的に増えてゆきました。 昭和30(1955)年から昭和48(1973)年までの高度経済成長 を支えたのは、高い教育水準の若くて安い労働力、余剰農業労働者や炭鉱 離職者など、多くの求職者層の活用でした。 また、輸出に有利な固定相場制(1ドル360円)、石油などの安い原料、 安定した投資資金も後押ししました。さらに、所得倍増計画などによって

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